タイトル未定(仮)

絶対倶楽部/DeadRage(準備中) ベース。飽き性なので気が向いた時に書きまーす。ブログタイトルは思いついたら変更しまーす。

カラオケが嫌いな話。

まったく、カラオケボックスってなにが楽しいのかわからない。

 

まず、私はめちゃくちゃ歌が下手である。正しい音が出せない。そのくせ耳だけは肥えていて、絶対音感があるもんだから、自分が歌っているのを聴きながら、あー音が違う〜…などとイライラヤキモキするわけである。

フルートを昔やっていたおかげで腹式呼吸は出来るはずだし、正しい音もわかるってことはあとは技術の問題で、思った音がきちんと出せるように練習すればいいだけの話なんだけど、練習してまでうまくなりたいほど楽しくもないし、そんな必要性もない。

そんなわけで自分が歌うのは大嫌いである。

ゆえに、ほかの人は歌っていて楽しいのかなぁ…?と、そこも理解できない。

 

次に、全く知らない歌を聞いてなきゃいけない意味もわからない。

そりゃあたまには自ら聞かないジャンルの音楽に触れる機会にはなるが、べつにカラオケ代を払ってまで聞くほどでもない。それも素人だ。なまじ耳が肥えているので、不快なものにカラオケ代を払うのかぁ…と萎える。でもカラオケうまい人もいるじゃないか、と思われるかもしれないが、もちろんそれはそれで見ていて楽しいは楽しい。ただどんなにうまくても、エグザイルや西野カナを歌われちゃたまらない。万札置いて速攻帰る(盛った)。つまり、私もカラオケ代出してもいいって思えるほどうまい人もしくは好きな人が、Xやガンズやミスチル、きのこ帝国やセリーヌディオンやサンホラなどを歌ってくれるのであればそりゃあ私だって何時間でもいる。

しかし現実にはそうもいかない。

流行りの薄っぺらい歌やいわゆるモテ曲?(ありきたりな言葉を並べたぜんぜん響かない物)、最悪聞いたこともないような演歌などを延々聞かされ、曲が終われば拍手をし前曲と被らないような感想を述べなければならず、トイレやドリンクバーに立つタイミングも計りに計り、いやだと言うのにお前も歌え歌えと強要されたり(歌っても断っても微妙な空気になるし)、挙げ句の果てにはワリカンで私までカラオケ代を払わせられる。まったく、時給もらいたいくらいだと言うのに。

 

そんなわけで、プライベートではカラオケに行かないようにしている。行くとしても、気遣い無用でお互いのクオリティに口出ししないでいいとか、趣味ががっちり合うとか、とにかく心を許した人間でないと本来は行きたくないわけである。もしくは全額出してくれるか、ね。そうじゃないカラオケの誘いはことごとく断る。それで関係が悪くなるような奴はきっと仲良くなれないからもう良い。たぶんそういう奴は自分が歌ってる番でトイレに行ったらあとからネチネチ言い、歌いたくない奴に一曲強制するような人間なのである(独断と偏見)。

 

んな事言ったってたまには断れない「お付き合いカラオケ」もあるでしょう!特に来年から社会人なら!と思われた方もいるだろう。

甘いな!!

カラオケ嫌いの私はこれまでに断れなかったカラオケ回で積み上げたノウハウがあるのだ!!

行くと決定してからの言い訳等振る舞い方、ボックス内での座り位置、盛り上げ係/雑用係と周りに認識させるための盛り上げ方/行動、席の立ち方(場のノリ別)、一曲歌えと言われた時の断り方(場のノリ別)、断りきれなかった時の選曲(場のノリ別)、歌ったあとの空気の処理、などなど!

 

ただしこれは、こんな努力と苦労と気疲れに見合うだけの見返り(もしくはリスク回避)がある時にしかやりたくないので、大方は断ります。能天気にカラオケを楽しめる人になりたかったなぁ。トホホ。

だいがくよねんかん

あっという間にそろそろ、大学生最後の夏休みが来るらしい。

これって実質、人生最後の夏休みだ。早かったなぁ、こないだ大学入ったばっかだったのにー。

 

四年間でやってみたかったことはたくさんやった。だいたいやりたいことはやりきった感はある。あとこの夏で旅行とか行きまくれば、もうやり残したことはあんまりない。いや、正確に言うといろいろあるんだが、もう今からじゃどーにもならんことばかりなので、諦めたというか、考えないようにしているって感じである。

いちばん思うのはやっぱり、もっと勉強しておけばよかったなぁーということ。テスト勉強をしたり社会人の方と喋ったりするたびに、無知無教養だなぁと思うし、まだ若いんだからとか言っていただいても、そりゃあ大人の方に比べれば経験値もないし未熟だろうけど、それでも同じ授業をとっている大学生とかと比べてもなんともアホだしなぁ…と思うわけである。

あーもっとちゃんといろんな分野に渡って勉強しておけばよかったなぁーーでも勉強に時間割いたらこんなに遊べなかったかなぁーとか、考えてもしょーもないんだけど、なんとなく思ってしまうテスト期間であります。あと9ヶ月、遊びつつ精一杯できるだけ勉強したいと思います。ちゃんちゃん。

サービスに対価を払うこと

昔、一時期だけだけれど、家事代行サービスのバイトをしていた。

 

お客さんは1時間2000円ちょいで我々バイトを家や事務所に呼び、我々バイトはちょこっと中間搾取されつつも、まあまあの高時給で皿洗いや洗濯物たたみ、雑貨の仕分けや風呂・トイレ・部屋・ベランダや排水口・クーラーの掃除などなど、家事の範囲のことは大抵引き受ける。

お客さんには様々な方がいらっしゃって、お仕事や子育てが忙しいとか、お子さんご家族との時間を大切にしたいとか、単に人手が足りないとか、それぞれ様々な理由を抱えている。

我々の家事が行き届いていなければお客さんから直接注意をされるし、会社にクレームを入れられたりもする。それはお金をいただいている我々が対価に見合ったサービスをできなかったわけだから、甘んじて受け入れる。

 

旦那さん(もしくは奥さん)が家事を手伝ってくれない、と愚痴を言う主婦(もしくは主夫)の方を時々見る。

たしかに外注すれば1時間2000円かかるところを、身内には払わないどころか足りていないと文句をいうのはおかしな話なのかもしれない。

私は主婦経験もなければ今のところそんな予定もないし、実際主婦になってみればまたいろいろ違うのだろうし、子供の素人目に見た意見で机上の空論に過ぎないのかもしれないが、こういったバイトがある以上、「私の家事に文句があるならお金払ってプロに頼めば!!」という主婦(主夫)が出てきてもいいんじゃないかなぁとも思う。

 

こうなると今度、やらない側からはこういう意見が出るかもしれない。

(※以下イメージ)

「俺(私)だってやろうと思えばそれくらいはできるわ!そんなことにお金払うのはもったいない!!」

「じゃあお前がやれよ!!!」

「いや時間がないだけなんだよ、時間があればできるんだけどさ、あとさ仕事で疲れてるしさ、ほら体力があればでk(以下略)」

「そういうのを含めて『できない』っていうことなんだよ!!!!!」

……とまあこういうことなのであーる。

技術がないだけでなく、時間がない、気力体力がない、やりたくない、全て込みで結果だけ見たらそれは『できない』わけであーる。

 

人の仕事を見て、「あれくらいのクオリティのことなら自分もできるよ、あんなんでお金もらうとかアコギな商売だなぁ〜」などと言う人がいる。

そりゃークオリティが高いに越したことはないし、自分でできるなら自分でやるのがコスパは一番良い。

ただし、それを商売にしている人たちは能力的に『それができる(能力がある)』だけではなく、『それができる(能力があった上で) + それをやる(時間/体力/行動力がある)』というふうにもう一段階上乗せされていることを忘れないでほしい。

上記にあげたような様々な理由で『できない』人の需要がある限り、その商売は成り立つ。

 

もっとわかりやすい例で言えば、「外食」である。

そもそも(料理を作る)技術がない人は、お金を払って外注(外食)する。

技術はある(普段は自炊をする)けど、時間がない(忙しい)とか、体力がない(今日は疲れた)とか、行動力がない(めんどくさい)といった人も、お金を払って外注(外食)である。この場合、お金は『技術』だけではなく、『時間/体力/行動力』に払っていることを、絶対に忘れないでほしい。

要は『自分の足りないところを埋めてもらった代』である。

そこで、「私にもこれくらいのクオリティのご飯作れるし!!」と主張して馬鹿にするとかお金を払わないとかってなったら、そりゃあもうどう見てもただのクレーマーである。

「そんなに言うんなら外食なんてしないで自炊しろよ!!仕事早く終わらせて時間作るなり、残った体力振り絞るなり、めんどくさくても我慢するなりして自炊しろよ!!」ってなってしまう。

 

家事や外食を例に取ったけれど、これはイラストでも写真撮影でもデザインでも編集でも全部一緒。なのになかなかきちんとわかっている人が少ないのは不思議だ。

 

技術がない人、そのサービスを必要としている人にとってのありがたみはわかりやすい反面、技術はあるが何かが足りないという人にとってはありがたみを感じづらいのも事実ではある。

しかしサービスする側としては、対価がもらえなければビジネスどころか生活も立ち行かないし、家族内なら生活が立ち行かなくなることはないにせよモチベーションが上がらない。

家事代行や外食、イラスト/写真/デザイン/編集その他サービスでもなんでも、『自分の足りないところを埋めてもらった代』を払わないことにはフェアではないし、最悪何なら代金未払いの軽犯罪かなんかになる(ような気がする、法律はよくわからん笑)。

パートナー間や家族内で金銭のやり取りをしろとまでは言わないけれど、パートナーに家事を任せるのであれば、頑張って働いて稼いでくるなり、ボーナスでなんかプレゼントでもするなり、何らかの形で家事時給分くらいは還元しないと割に合わない。

バイトや社員を雇って丸投げするとかってなっても、彼らは『雇用主である自分を手伝ってくれる』というサービスをしてくれたことに、対価としてお給料を払わなければならない。見方を変えればこれも原理は同じである。

いずれの例でも、それができないなら作業分担は必須になってくる。

 

何が言いたいかと言うとだな、結論は一つ

 

『サービスにはそれに見合う対価を払ってくれ!!!!』

 

以上!

 

一行でまとまるならこんなダラダラ書くなよ!と思ったそこのアナタ、タイトルだけ読んでおしまいにすればよかったのに、ここまで長いことお付き合いいただいてありがとうございました。

他人に厳しく、身内に甘く、自分には最高に激甘で。

脱退発表から2日。

 

発表後の物販席で、来てくださったお客さんが悲しいとかもったいないとか辞めてほしくないとか言ってくださるのを聞くと、なんだかこちらまで寂しくなった。


なんとも幸いなことに、私は21年という短い人生の中でも、過去の自分の選択に後悔したことはたった一度もない。その選択の全てが今の自分のどこかしらなにかしらに活きていると思うからだ。というか活かさないともったいない。

今回のこともこの選択で本当に正しいのか自分の中では散々迷ったし、メンバーやバンドマンの先輩方なんかにもたくさん相談に乗ってもらったりしたし、なにより皆さんと今までのように会えなくなるのは寂しく思う。

それでも私はきっとこの選択で絶対に後悔はしない。というか自分自身に後悔なんかさせない。

誰も信じられない誰も信じてくれない世界で、自分くらい自分を信じてやらなくてどうする。

こんな厳しくて生きづらい世界で自分くらい自分を甘やかしてやらなくてどうする。

 

信じられるのは自分の直感、判断、過去の行動、そしてそれらの確固たる根拠だけだと私は思っている。

だから、「奏さんきっかけでバンドのことを知りました、奏さんが脱退してもバンドのことは応援し続けます」と過去の行動を認めてもらえるのが私としては一番嬉しい。

 

私はリーダーでもないサブリーダーでもない平メンバー(?)だけど、バンドを支えてきた自負はある。所詮一般人だから、逆に誰よりもお客さん目線でバンドを動かした自信はある。まあおこがましい話なんですけども。

 

未熟ながら、1年かけてたーーくさん学ばせてもらったことを、今後も少しでも人の役に立てるよう使って行ければと思う。

 

もちろん自分に激甘にすることは最優先なんだけれども。笑

未練と似て非なるような、なんだかよくわからない感情。

1年ちょっと続けたバンドを辞めることになった。

来年から社会人になるし、卒論も書かなきゃいけないし、人生の夏休みラスト数ヶ月、勉強し残したことや行きたい旅行先、まだまだ飲みたい人、やりたいコピバン、いろんなことが重なりすぎてどうしていいかわからなくなった結果だ。

絶対倶楽部は私にとって初めての「趣味じゃないバンド」で、初めてフライヤーを刷って、初めて自ら集客や営業を学んで、初めてグッズを作って、初めて身内じゃないお客さんが見に来てくれて、初めて遠征の対バンさんと会って、初めて主催イベントをして、初めてインストアイベントを開催して、本当に初めて尽くしの面白い1年間だった。

 

辞めたいです、と初めて言った時、メンバーは一旦シーンとしてからめっちゃくちゃ引き止めてくれた。素直に嬉しかった。だけど辞めようという決意はどんなに言われても揺らがなかった。

それが、皆に向けて脱退発表をすることになった瞬間突然、なんだか寂しいようなもう少しいたいような感傷的な気持ちになる。自分の判断は正しかったんだろうかと、とてつもなく不安になることもある。

でもこの感情が一時のまやかしであることを私は知っている。

冷静じゃない土壇場のときの一瞬の気持ちはだいたい錯覚で、この「未練」と勘違いしやすい謎の感情に一度囚われるとなかなか抜け出せなくなるものだ。

現実から目を背け、本当はもう終わりの来ている恋人と、もしかしたらやり直せるんじゃないか、まだ大丈夫なんじゃないか、と思ってしまい別れられずに泥沼になるのと一緒だ。

これは、筋肉少女帯の「サンフランシスコ」であって、BonJoviの「Livin' on a prayer」ではないのだ。

 

未練というのは、終わったことに対して名残惜しく思う気持ち、であると私は思う。

だからこの、終わることになった瞬間突然後ろ髪引かれるような騙されちゃいけない錯覚、は未練とは似て非なるものだ。

なんと名前をつけたらいいんだろう。

でも個人的にはこの錯覚に囚われた時の空虚な気持ち、なんとも言えず好き。笑

GW

世はゴールデンウィークだったらしい。

私もスタジオとライブを除いては、かなり楽しい3日間を過ごしはしたが、せっかくのゴールデン(なはずの)3日間がゴールデンではなくなる要素もありすぎて、なんだか複雑な休みではあった。

 

まずさぁ、ゴールデンウィークって観光地どこも混むじゃない?

そう考えたら大学生にとっては、ゴールデンウィークより普通の土日(&前後の金・月も全休にしちゃえばOK)のほうがゴールデンだったりするのよね。贅沢な話。今年中に遊び尽くしておかないと。

 

あとは小旅行中に、プライベートの人間関係が細く続いていたこと。旅行中はなるべく他の人とかとの連絡を断ちたくなってしまうので、こういうのは意外にも面倒。

 

ひとつは、主催イベントを控えたバンド云々のお話し合いである。まあ仕方がない。主催イベント直前に旅行に行く私も悪い。笑

 

もう一つは、親友から就活の相談。これはかなり心にキた。

私は業界柄、去年の冬から動き始めていたこともあって、周りに比べれば早く就活が終わったのだが、親友はまだまだ就活の真っ只中のようで。就活を早く始め早く終わらせた “先輩” としてはアドバイスをあげたいところだが、親友に、それも普段は尊敬すらしているような同級生に偉そうにアドバイスをするのはかなり心が痛んだし、かといってどうしてあげればいいのかもわからなかった。

 

私は、人になにかを教えるとか伝えるとかいうことが昔から苦手で苦手で、地獄の女子校時代を6年過ごし、いろんなバイトやバンドの営業やらをやってきてやっとマシにはなったと思っていたが、どうもそうでもないらしい。

例えば後輩とか家庭教師の生徒とか圧倒的に立場が下の人には、うまく煽っておだてて教えることはできる。年上や先輩、目上の人を立てながらなんとか自分の意見を言うこともできるようになってきた(説得できる確率が高いとは言っていない)。

しかし、バンドメンバーとか同期とか恋人とか、ある程度並列な相手には、尊重を含みつつアドバイスを伝えることはまだまだとても苦手で、なんといえば小馬鹿にして聞こえないのかとか、なんといえば気持ちよくやってくれるのかとか、なんといえば甘やかしすぎず厳しすぎず伝わるのかとか、そういうのが全然わからない。

経験あるのみなんだろうか。

 

そんなことを考えたゴールデンウィークであった。

あれ、どこ行っても混んでる話、あんま関係なかったな。ま、いっか。

未来、過去、現在 愛、夢、依存

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写真展を見に行った。

小森裕佳さん、相馬ドリルさん、そしてPokoさん。

三者三葉、いろんなことを考えさせられる展示であった。

 

就活の用事が早めに終わり、なんとなく思い立ってひとり下北沢へ。

個人的に下北沢に来るのは約1年ぶり、前回の上陸理由なんかも思い返しつつ、小さな路地の3階にあるギャラリーに向かう。

知人を介してPokoさん、小森さんに挨拶させていただいた。両者とも良い方だった。

 

小森さんのブースは優しい空気で満ち溢れていて、下着でも変なエロさはなく、サイレントなのに柔らかい音が流れてくるようだった。

空間そのものの美しさに見惚れてしまった。

未来の理想形のような空気だった。

 

相馬ドリルさんの写真は逆に、ダイレクトなアダルトさと少女特有の危うさのようなものが程よい妖艶さを生み出していて、お洒落なギャラリーの白い壁とのミスマッチ感も不思議に印象に残った。

一昔前の自分なら確実にハマっていただろうが、なんとなく今の私には刺さらず、なんだかある種の成長を実感したような気にもなった。

 

 

今の私に一番刺さったのはPokoさんの写真だった。

被写体の女性が知人で、前から話を聞いていたということもあるのかもしれないが、それを差し置いても感情を突き動かされるものだった。

ブースには時系列ごとに夥しい枚数の写真があり、2014年から月毎に詳細なキャプションがついていた。なんとなく、その頃自分の身に起きていた事なんかを思い出しながら見て回った。

全ては彼の目線から見た、彼とその周りの女性の日常で、ただの紙からいろんな感情が伝わってきた。

途中から涙を堪えていた。

無意識のうちに、自分や、自分が今まで出会ってきた人たちを重ねて見ていた。

女性たちはみんないい顔をしていて、きっとそれはこの世界で彼たった一人にしか撮れないものなのだろう。たくさんの女性たちを全て見てきたカメラとBedはなにを思うのだろうか。

 

映像作品を見てとうとう涙腺が決壊。

きっと彼の求めているものは、永遠に手には入らない。たくさんの女性が周りにいても、完全に満たされることはない。

私では何もできないことも知っている。それでも、このひとをどうにかしてあげたい、と思う女性たちの気持ちは痛いほどわかった。

 

 

彼は何かに怯えるように、何かから逃げるように、必死に彼女らに何かを投影し、何かを探し求めているように見えた。

そして、似たような男女は他にもたくさんいると思った。

 

果たして彼らが見ているのは、本当に彼女らなのだろうか。

彼女らの行為は、単なる自己愛・共依存なのだろうか。それとも、それに気づいた上での強い無償の愛なのだろうか。

 

どうしたらかれらは救われるのだろうか。

 

本人が幸せであればそれで良くて、私のような他人が口を出すべきことではないこともわかっている。

 

それでも考えてしまうのは、きっと自分も似たような部分をどこかにまだ持っているからなのだろう。